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大阪高等裁判所 昭和38年(ネ)1125号 判決

控訴人 神戸東労働基準監督署長

訴訟代理人 叶和夫 外四名

被控訴人 丸井幸次郎

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人は主文第一項同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張、証拠の提出援用認否は、

控訴代理人において、事実関係につき、被控訴人の右眼の視力は〇・六以下ではない。被控訴人の右眼の他覚的視力は〇・七以上であつて、少くとも〇・六五以下ではない。そして労災において基準とされる視力とは矯正視力で、しかも他覚的視力を意味する(規則別表第一末尾備考一、参照)。けだし、自覚的視力とは被検査者が万国式試視力表について「見える」という最大の視力を以てその眼の視力とするものであつて、被検査者が絶対に嘘を言わないという信頼が前提となつているが、視力の如何が利害関係に影響する場合は、右のような被検査者に対する信頼は保証され得ないことは眼科医の間の常識であつて、このような場合の自覚的視力は客観的に正確な視力を示すものではないから、労災関係の基準としては採用できないものである。また本件では矯正視力は測定されていないが、矯正視力が裸眼の視力より以下であることは有り得ないから、裸眼の他覚的視力も次善の策として基準と為し得るものである。本件において被控訴人の主治医であつた高橋重勝が、被控訴人の受傷後間もない昭和三〇年三月二〇日頃の右眼の裸眼視力が〇・八、矯正視力が一・〇であり、一年後の昭和三一年三月一〇日の右眼裸眼視力が〇・七であつたのに、閃輝性暗点以外の眼病が治療した二年後に裸眼視力が〇・五に低下したという理由が分らないと述べているのは、本件の自覚的視力が正しい視力でないことを指摘しているものである。仮りに被控訴人の視力が〇・六以下に低下したとしても、該視力低下と本件事故による外傷とは困果関係のないことは、従前主張の通りである。と述べ、立証として、乙第七、八号証、第九号証の一ないし四、第一〇号証の一ないし三を提出し、当審証人高橋重勝同有沢武の証言を援用し、

被控訴人において、右当審提出の乙号各証は不知と述べたほか原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

なお、当裁判所は職権により被控訴人本人を尋問した。

理由

被控訴人が昭和三〇年三月七日、その主張のような業務に従事中、落下板片による外部衝撃により右眼窩下部を負傷したことは当時者間に争がない。被控訴人は、右事故による右眼部疾患の後遺症として、右眼視力が〇・四に低下し、労働者災害補償保険法施行規則別表第一に定める身体障害等級第一三級所定の「一眼の視力が〇・六以下になつたもの」に該当する旨主張するので(被控訴人の訴状記載の「第一二級」は、弁論の全趣旨及び成立に争のない本件に関する再審査請求における主張に徴して、「第一三級」の誤記と認める)按ずるに、

被控訴人の右眼視力の測定結果は、成立に争のない甲第二、五号証、乙第一・二、六号証、証人高橋重勝の証言により成立を認める乙第四号証の一、証人高橋重勝(当審)、有沢武、久保省吾の各証言を綜合すると、

(1)  初診直後の昭和三〇年三月一〇日ないし二〇頃(高橋医院) 裸眼にて 〇・八(矯正視力一・〇)

(2)  同年五月一二日(神戸医大) 同 〇・四(矯正視力〇・七)

(3)  昭和三一年三月一〇日(高橋医院) 同 〇・七(矯正不能)

(4)  昭和三三年四月 九日(同) 同 〇・五(矯正不能)

(5)  同 年四月一一日(阪大付属) 同 〇・五

(6)  同 年五月 八日(同) 同 〇・五

(7)  同 年五月 九日(同) 同 〇・三

(8)  同 年七月 四日(同) 同 〇・四

であるが、以上はすべて自覚的視力であること、他覚的裸力の測定結果は

(1)  昭和三三年四月一二日(阪大附属)裸眼にて 〇・七

(2)  昭和三三年五月 九日(同)同 〇・七附近、〇・六五以下には出ず(矯正測定不能)

であることが認められ、右認定に反する証拠がない。

そして証人久保省吾、有沢武、大西清治の証言を綜合すると、右にいわゆる他覚的視力とは自覚的視力が被検査者の申告に依存するのに反して、かような申告を侯たず、測定機械の反応によつて生ずる眼球振盪の程度を検査者自身が観察して測定する方法による測定結果であつて、甚だ客観的なものであるから、通例、詐病又は神経症(ヒステリー及び神経衰弱など)の場合に、被検査者(患者)の主観的な病状申告が、客観的現象と相違するか否か及びその程度を確かめるために用いられるものであり、患者の申告と医師の所見が一致しない場合にも、両者の不一致の原因を調べるために用いられることがあること、労災保険法上の判定基準は矯正視力を標準としているから、矯正視力の判定困難な場合には、その補充的基準として右の他覚的視力を用いることが多いことを認めることができるから、右にいわゆる他覚的視力が自覚的視力よりは強い客観性を持つものである以上は、労災保険法上の判定基準としては、専ら他覚的視力に依るべきであるということは是認できないとしても、少くとも右双方の視力を綜合して判定すべく、かつ他覚的視力の程度が自覚的視力のそれに勝る場合には、特段の事情のない限り、客観性の強い他覚的視力を以てその基準とするのが相当と考えられる。しかしながら、右両者の視力測定の差が、詐病の場合のみならず、被検査者に神経症のある場合にも生ずるということは、その差が神経症の患者については無意識的、無自覚的に生ずることを意意味するものであつて、病的現象として避け得られぬ結果であるから、視力なるものが元来本人の知覚たるの本質を有するものである限り、神経症の病人にはその本人の自ら知覚し得ない視力機関の客観的反応たる他覚的視力は、右の病人については視力たる意味を持たず、結局この種の病人には自覚的視力のみが視力として唯一の意味を持つものと考えない訳にゆかない。そうすると、被検査者が神経症を有することは、他覚的視力をその者の視力として無条件には採用できない特段の事情に該当するものと考えなければならない。

ところで前掲乙第二号証と証人久保省吾の証言を綜合すると、阪大医学部附属病院における昭和三三年四月及び五月の被控訴人の視力測定の結果によると、被控訴人には右測定の際に(イ)螺旋状視野倒錯、(ロ)管状視野、(ハ)色視野倒錯、(ニ)角膜知覚の鈍麻化の諸現象が見られ、右(イ)(ロ)(ニ)はヒステリー、神経衰弱症の者に多く見られる現象であり、(ハ)はヒステリー又は神経症を表わす症状であることが認められるから、これら諸現象の同時重複発生は、他に特段の反証なき限り、被控訴人は前記視力検査当時神経症的症状に在つたものと推測せられる上に、被控控人が本件事故の直後右眼に閃輝性暗点を生ずる症状があつたことは当事者間に争いのないところであり、右症状は、神経の機能疾患であつて、一般にヒステリー又は神経症の者に多く見られる症状であることは、証人高橋重勝(原審)、大西清治の証言を綜合して認められるから、被控訴人が本件事故後神経症状に在つたことは充分推定でき、これを覆えすべき反証がない。そうすると、被控訴人については、その視力測定に関し、前記の他覚的視力を綜合資料として斟酌することは差控うべきであり、むしろこれを排除して自覚的視力(その信憑力を考慮の上)のみを基準とすべき例外外的場合に該当するものといわねばならない。

そして成立に争のない乙第三号証と証人高橋重勝の証言(当審)によると、本件事故の右眼関係の症状は昭和三三年三月九日頃固定したと見られたので、同日を以て治癒したものと判断されたことが明白であるから、その後に残る症状はいわゆる後遺症と見られるものであり、前認定の自覚的視力測定の(1) ないし(8) の各結果のうち、(4) ないし(8) の視力はこれに該当するところ、右自覚的視力測定の結果が被控訴人の詐病によるものであることを推認するに足る証拠もないから(被控訴人については他覚的視力を無条件に採用し得ないこと前示のとおりである)、そのうち最も信憑性が高いと考えられる自覚的視力として(4) ないし(6) の視力〇・五を以て、被控訴人の治癒後の右眼裸眼視力と認めざるを得ない。そしてこの視力は控訴人の主張する矯正視力ではないけれども、矯正視力にも矯正された自覚的視力と他覚的視力が考え得られ、それ自身は他覚的視力とは別種の概念であるから、他覚的視力を以て直ちに矯正視力を代用できず、前記(4) ないし(6) の裸眼視力に相応する矯正視力が測定されていない以上、矯正視力が当然に右裸眼視力を上廻るとの推定のみを以て、被控訴人の矯正視力が当然に〇・六を上廻るものとは軽々に推認することができない。

そこで次に、右に認定された被控訴人の右眼視力が果して本件事故に因果関係を持つか否かについて見るに、被控訴人本人尋問の結果(原審によると、事故前には被控訴人の右眼視力は完全であつたことが認められ、何等反証がなく、また前掲自覚的視力(1) (3) の結果に徴しても、被控訴人の昭和三三年四月以降の視力〇・五は少くとも本件事故発生時を含めてそれ以後の低下現象と認めねばならない。よつて以下に右視力低下の原因を検討する。

本件事故直後たる昭和三〇年三月八日ないし同月一〇日当時被控訴人について、右眼窩下部の外傷のほかに、(1) 右眼陳旧性中心性網膜炎、(2) 右眼瀰漫性表層角膜炎、(3) 右眼外傷性鞏膜炎、(4) 右眼閃輝性暗点、(5) 顔面神経痛の各症状が診断され、またその後(6) 急性結膜炎及びこれに因る右眼点状角膜の白斑が生じたことは当時者間に争がなく、前掲申第五号証、乙第一、三、六号証、成立に争のない甲第三号証、証人高橋重勝(原審、当審)、大西清治、有沢武の証言を綜合すると、右のうち昭和三三年三月九日までに(2) 角膜炎、(3) 鞏膜炎、(5) 顔面神経痛、(6) のうち結膜炎は全治し、同年五月七日頃までに(6) のうち角膜白斑は存在が認められないようになり、(4) 閃輝性暗点は軽快となつて症状が固定したこと、右の閃輝性暗点は、発作的か瞬間的の症状で、それ自体は平常の視力障害にならないものであること。(1) の網膜炎は陳旧性であるから旧く事故以前から存したものであることが認められ、右認定に反する証拠がないから、本件視力低下を右各症状と結合せしめ、その何れかの結果として想定する限りにおいては、右(2) ないし(6) の症状が本件事故に起因すると否とに拘らず、視力障害との因果関係としては否定されねばならない。

しかしながら、他面において成立に争のない甲第六、七号証、当裁判所において成立を認める乙第九号証の二、三、前掲乙第二号証、証人高橋重勝(当審)久保省吾、有沢武の証言を綜合すると、前記(3) の鞏膜炎は外傷により発生することがあり、(4) の閃輝性暗点は、外傷による衝撃で発生することのある神経症的性質のものであること、現に昭和三三年四月一一日被控訴人は阪大医学部附属病院において、「外傷性神経症」の症状ある旨の診断を受けていること、この「外傷性神経症」は神経症の素質のある者に外傷が契機となつて発病するものを意味し、通常は心因的疾患で器質的な疾患でないと言われるが、眼科では例えば管状視野の如き器質的病状と考え得るものが存すること、神経症の素質を有していても、発病に至らない場合も勿論存在すること、以上の諸事実、法則の存在を肯定することができる。この認定事項に、さきに認められた被控訴人の視力測定の際に現われた。(イ)螺旋状視野倒錯、(ロ)管状視野、(ハ)色視野倒錯、(ニ)角膜知覚鈍麻化等の諸現象の存在事実とを綜合して考察すると、本件事故による外部的衝撃が、被控訴人の神経症的素質の従来の抑制的均衡を破る契機となつて、前記閃輝性暗点の如き神経的症状を生ぜしめたと同時に、神経病的な性格を持つ視力障害を起し、前認定の視力低下を来したものと推測するを相当とし、右推定を覆すべき資料がない。尤も前記(1) の網膜炎は視力障害に影響を持つ後遺症たり得ることは証人有沢武の証言によつて窺い得るけれども、右の網膜炎は陳旧性で本件事故以前より存したと認められるものであるから、事故以後の視力低下の決定的原因として右の反対資料と為すには足りず、乙第五号証の記載及び証人大西清治の証言中右認定に反する部分は採用できない。そして右の結果は、被控訴人の素質に一半の原因が在つたとしても、その素質が自発的に発病の結果をもたらす程度、性質のものであることが明らかとされない限り、右発病に対して本件事故は決定的原因を与えたものと考えざるを得ないから、右事故と本件視力低下との間には、相当因果関係を肯定すべきである。

以上の理由により、被控訴人は本件事故のために労災保険法の定める身体障害等級第一三級所定の障害を後遺症として蒙つたものと認められるところ、控訴人が被控訴人の障害補償給付の請求に対して不支給の決定をしたことは当事者間に争がないから、右決定は違法として取消を免れない。

よつて右取消を求める被控訴人の請求を認容した原判決は相当で、控訴は理由がないから棄却すべきものとし、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 岡垣久晃 宮川種一郎 奥村正策)

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